やまいとオレンジ、ジェフバックリー
遅くなりましたが、アルバム『Breath』リリースライブが全て無事に終了いたしました。来てくださった方、関わってくださった全ての方に感謝しています。どうもありがとうございました。
その後少しずつ、また新しい曲を作り始めています。
昨年の12月に作品をリリースして、5月8日の東京Nui.でのライブで最後だったのですが、通して半年近く時間を費やしたために季節がすっかり変わっていました。
寒い寒いと思っていたらすっかり初夏に近い日差しのファイナルとなりました。暑かった。
Nuiでのライブは入り口を開け放しての昼間のライブ。なんともいえない非日常な開放感があって当日みた景色は一生忘れないと思います。終演後いろんなお客さんと話しできたのもよかった。昼間のライブは終わったあとがゆっくり過ごせていいなぁ。
事前に共演の波多野裕文さんとジェフバックリーの話題で盛り上がったところ、当日一緒にカバーをしようということになり、ジェフの中でも異色の「all flowers in time bend towards the sun」を選びました。これはオフィシャルで音源がリリースされていない楽曲で、コクトーツインズのエリザベス・フレイザーとジェフのデュエット作です。二人の関係に関してここでは割愛しますが、なんともラフな雰囲気のテイクがYoutubeにアップされているので削除されていなければそこで原曲を聴くことができます。波多野さんは自身のセットリストにも「calling you」を1曲目に選んでいて、ジェフファンにはこちらもお馴染みのカバー。
誰のライブだというくらいMCではジェフの話をしましたが、それだけ(幸か不幸か)彼は特にミュージシャンに非常に愛されているミュージシャンだということです。ミュージシャンズミュージシャンというのかな。人には誰でもそうですがいろんな側面があります。ジェフも当然音楽家としてのいくつもの顔があり、歌い手、ギタリスト、作曲家、作詞家。。。ファンそれぞれの見方・聴き方でたくさんのジェフバックリーが存在すると思います。
よくいわれるのがジェフバックリーといえば「ハレルヤ」ですが、こちらは本人作の楽曲ではなくカバー。彼はカバーのテイクが非常に多い。あれだけ歌が上手ければ何を歌ってもたいがい楽曲を原曲とは別種の高みに引き上げる。そしてシンプルな楽曲ほど、いわゆる「泣ける」感じに仕上がる。一方でジェフ本人作の楽曲は、面白いことにそういったわかりやすい感傷に浸るのをひたすら拒むかのように「泣けない」。mojo pinも、graceも、so realもeternal lifeも「泣ける」感じとはちょっと違う。lover, you should’ve come overが比較的「泣ける」楽曲になるだろうか。last goodbyeも非常に美しい楽曲だけどギターのフレーズなんかすごく難しいしわかりやすい構成の楽曲ではない。そもそも繰り返すフレーズがほとんどない。「泣ける」というのはちゃんとわかりやすい場所に着地するかどうかという「おかえり」的な安心感だと思う。どこにも着地しない楽曲には安易な共感が生まれないし、聴き手の想いが移入する余地が少なくなるので「泣けない」。カバーのレパートリーは多岐にわたるけれど、そのほとんどはスタンダードというか、誰でもが知っているシンプルな楽曲が多い。それらを彼のあの表現力をもってしてカバーされると、非常に「泣ける」のである。カバーの「泣ける」感は、ちょっと変な例えだけれどエアロスミスのバラードくらいわかりやすい説得力を持っている。オリジナル楽曲の「泣けない」感は非常に清々しく、何度読んでもわからない部分がある書物が持つ永遠の謎解きのように僕たちの前に存在し、これからも繰り返し聴くことを強いる。が、答えにはおそらく到達できない類の幸せな困難さがある。
どこまでも消費されない輝きが。
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波多野さんがカバーしてくれた僕の「やまいとオレンジ」という楽曲。聴けて本当に嬉しかった。僕があの曲を作ったのは20歳をそこそこ過ぎた一番青臭く面倒臭いメンタルだったときで、今でも自分で歌うときにはある闇が目に浮かぶ。歌の時間だけ昔のメンタルに戻るように感じる。
さぁ外に出た。闇を探すか、光を探すか。
それはひとそれぞれだけど、若いときほど純粋にひねくれている。僕が歌を作って歌う原動力はそのひねくれた部分が大いにあった。弾き語りだけど共感や調和みたいなものからは途轍もなく離れたところから表現活動をはじめた。
とても大きな交差点で、横断しているつもりでも止まっているように感じるけれど、気づいたら交差点の反対側にいたなんて気付きは、何年も何年も経過したあとのことだ。
こんなに永くの間、歌を作っているなんて。
「やまい」なんてポジティブな意味がさほどない言葉を今思えばよく歌のタイトルに、歌のコーラス部分に使ったなぁと思う。平仮名だけど発語した際の印象は同じだ。「オレンジ」も意味がわからない。ふと、かつて森村泰昌の「美に至る病」というのがあったことを思い出した。そういえばその頃、京都の美術館でアルバイトをしていて、まさにその展覧会をやっていた。ということが頭に残っていたのかもしれない。
若者はみんな「若さというやまい」おかされている。
少しずつ雨に穿たれる石のように、気付かないくらいのスピードで人間は変化していく。気付いたらこんなところまで来てしまっていた。
人生は山登りというよりも遠泳みたいに感じる。
「やまいとオレンジ」も、その同時期に作った曲も、なぜそんなタイトルをつけたのかもう忘れてしまった。
家のものを整理していたとき、おそらく30歳を過ぎていたと思うが、オレンジ色の紙の束が押入れからたくさん出てきた。
かつて美術館でアルバイトをしていた頃に、展覧会の商品が入った段ボール箱か何かに詰めてあったものだと思う。
当時もすごい量の歌の歌詞を書いていたので紙をたくさん必要とした。紙の色や質感によって、また筆記する道具によっても、出てくる言葉が異なるように感じることが興味深かった。
そのオレンジの紙に「やまいとオレンジお口にくわえて ふたりで朝まで死んでいようか」とボールペンで書いてあった。あとは何も書いておらず、そのメモのことも記憶にはもうなかった。
その当時住んでいた、ワンルームのアパートの部屋のことを思い出した。
かつて「死」や「闇」にフォーカスして歌を作っていた分、今はバランスを取るように「生」や「光」について言葉にすることが多い。
どちらも言いたいことは変わらない。見えているものは昔も今もほとんど変わらない。アプローチが変わったのだと思う。聴く人が歌に見いだす闇は変わらずにそこにある。光ももちろんある。光は昔もあった。光は強くなった。その分だけ闇も濃くなったに違いない。
人生は大病でもしない限り、最初は永久に続くように勘違いする。でもどこかでわかりはじめる。どれもこれも限りがあり、大事にしていかねばと気付く。本気で望んで努力をすれば人は何ものにでもなれると教えられる。頑張れば夢が叶うということも教えられる。夢が叶っても、自分は自分でしかない。どれだけ新しい自分に生まれ変わったと思っても、生まれ変わった自分を見つめる元々の自分はいつまでも消えない。
どうせ変わらないのなら、せめてそんな自分を愛おしく思って付き合っていこうと思う。
たいがいのことを肯定できるようになった自分のこと、ようやく今頃かよ、とも思うけれど。
波多野さんの歌声に、いつも慈愛を感じる。
どんなに激しいリフの曲を歌っていても、朗読部分を聴いていても、その声に慈愛を感じる。
ただ優しい、というのとも違う。突き放したり、抱擁したり、まるで生き物そのものみたいな慈愛を感じる。
だから会って話すたびに、いつもニュートラルだなと感じる。
波多野さんの「やまいとオレンジ」は僕の歌う質感と違う。
波多野ヴァージョンは慈愛に満ちている。
歌詞もメロディもよく知った歌なのに、自分が書いた歌で感動するなんて変だなと思った。
やっぱりそれは慈愛が溢れているからだと納得した。